水素で新生活

それは忠告ではあったが、ソニーの中で当時かデジタルdがいかにタブーであったかを物語ってい「デジタル」最前線の情報処理研究所思い返せば、かつて世界初の電車ソパックスを開発しておきながら、電卓戦争に巻き込まれ、撤退の憂き目にあったトラウマ(苦い経験)が、ソニーのエンジニアの深層心理に深く影を落としていた。 そもそもソニーにおける専門分野のヒエラルキーは、第一にアナログ回路エンジニア、次にメカエンジニア、そして機構エンジニア(シャ-シ、僅体の設計を担当)という順番であり、デジタルエンジニアはその次の次あたりに住置していた。

しかも、デジタルといっても、デジタル信号処理やコンピュータ言語の開発ではなく、ビデオ機器やオーディオ機器のシステム・コントロールの設計が、当時のデジタルエンジニアの主な仕事であった。 社内ではかシスコンエンジニアと呼ばれ、よく言うと縁の下の力持ち的な存在だった。
本来はシステム設計を担当する大変重要な役割を期待される領域なのだが、しかし当時の実態は、回路エンジニアやメカエンジニアが時間ぎりぎりに設計したものを、何とか辻棲を合わせて動かすという、よろず問題解決担当の便利屋のような役割だった。 先輩の忠告は、可愛い部下に冷や飯を食わせたくないという思いから出たものだった。
しかし、その恐れはついに現実のものとなる。 一一インチ・フロッピーのプロジェクトが一段落したある日、Kは、VTRの制御担当への異動を打診される。
当時、VHSとの戦争の真っ直中で、VTRの操作性を良くすることが、商品力を強化する道だと言われていた。 Kは仕事ができる、しかもデジタルに詳しい…、VTRの事業部からすると、まさに欲しい人材であった。
「まあ、お前はうるさいから、シスコンでもやらせておけば、おとなしくなる、だろうと言われました」KはVTRのシスコンなんかより、デジタル信号処理の研究がやりたかった。 もっと技術者としての可能性を磨きたかった。

そこで、当時、ワークステーションのNどWSの開発で飛ぶ烏を落とす勢いだった土井利忠氏(当時、ソニー取締役)に、「ぼくはデジタル信号処理の研究がやりたいし、将来は家庭用のコンピュータに興味があるんです」と相談したところ、「それなら、森固さんのところに行け」とアドバイスされた。 。
森林固さんとは森園正彦(当時、ソニー副社長)のことで、ソニーの厚木工場で、放送機器の部隊を率いて赫々たる成果を上げていた。 世間に知られたか森園軍団4の親分として業界では一目も二目も置かれていた。
森園は、Kの言い分に親身になって耳を傾けてくれ、それならということで、「一度遊びに行ってみなさい」と、同じ厚木工場内にある情報処理研究所所長の吉田博文氏を紹介したKはそこを訪れて「これほどのデジタル技術のメッカが、ソニーにあろうとは…」と、驚いたそこはソニーの当時のデジタル信号処理技術開発研究の一大拠点だった。 デジタル・フィルター、DSP(デジタル・シグナル・プロセッサ)、コンピュータグラフィックスなどが研究され、ビデオ事業部で肩身の狭い思いをしていたことから考えると、まるでユートピアのようだつた。
「ここだ」。 Kは、すぐに転属の希望を出した。
しかしちょうど、そんなタイミングを見計らうように、ビデオ事業部内での人事異動が内示された。 このままでいくと気の進まない仕事をしなくてはならなくなる。
なにより自分はもっとデジタル技術を勉強したい。 ようやく、情報処理研究所に最高のユートピアを見つけたというのに・しかし、森園からの一本の電話がKを未来へと引き寄せた。
「君を、情報処理研究所に異動させたい」まさに土俵際のでき事だった。 Kは情報処理研究所に来て、水を得た魚のようにさま、ざまな知識を吸収した。
研究にも熱が入った。 何より嬉しかったのは、若い新世代の優秀なデジタル技術者が一〇〇人もひしめいていたことだ。
研究所内はアカデミックな雰囲気が漂い、毎日毎日が刺激的で楽しかった。 「ここでエンジニアとしてのキャリアをしっかりと積もう。

そしてこれだけの人材がいるんだから、いつかはこの連中とデジタル時代のソニーの柱になる大きなビジネスを立ち上げたい」と聞く心に決心した。 「ソニーの中での新事業というと一〇〇億円の規模が得られれば、それで大成功とされていました。
でも僕はもっと大きな将来のソニーの新たな柱となるようなビジネスを立ち上げたかった。 その方法論として自分一人でやる、もしくは数人でベンチャーを立ち上げるというのではなくて、ソニーという大きな会社であるがゆえにやれる、さらに大きなビジネスの立ち上げ方を選択したんです」。
ここがKの非凡なところである。 普通のエンジニアなら、研究所に異動してきたなら優秀な研究者となって発明を成し、学会で発表して賞賛を浴びていたいとか、学位を取りたいとかと考えるものだが、Kは、ビジネス、それも大規模な新事業を立ち上げたいと思ったのである。
研究者でありながら、しかも商才があるという稀有な組み合わせが、Kの強みである。 それは商売人の息子として生まれ、幼い頃から仕事をし、ソニーに入って技術を磨いたKならではの資質と言える。
後に世に出るプレイステーションに、三次元CG技術と共に、極めて画期的なビジネスプランが隠されていたのは、まさに商人であり、デジタルの研究者でもあるKのパーソナリティを反映したことだという解釈もできよう。 何か革新的なことをしようとbijinesuのシ-ズを模索していた時に、ちょうど出会ったのが、あのシステムGのコンピュータグラフィックスだった。
息子が夢中になったファミコンの素晴らしきも加わって、この二つが合体したならば、とてつもない世界が開けるはずと、その時、ひらめいたのだった目標は十年後…。 Kの思考は十年単位である。
まず十年は自らの技術力を高める時期、そしてソニーに入社してから十年後の八五年に、情報処理研究所でシステムGのようなさまざまな技術のシ-ズに出会い、多くの優秀なデジタル技術者を仲間に持った。 そしてテクノロジーを形にするための仕込みの十年。

綿密な技術予測に基づき、システムGのような最先端の技術も、あと十年すればコンス-マ-・プロ、ダクトになると読んだ。 Kには確信があった。
九0年代の中頃には、システムGに使われているような先端の技術が一般消費者が子にする商品になり、子供たちが最先端の三次元コンピュータグラフィックスのゲ-ムに夢中になるはずだ。 Kには、そのワクワクするような光景すら、三次元の明確なイメージとして、浮かんでくるのだった。
テクスチャ・マッピングテクスチャとは質感のこと。 CG画像において、制作するオブジェクト(人物、怪獣など)の表面に、そのオブジェクトに相応しい質感を描くこと。
例えば、怪獣の肌のリアルな再現がそれ。 マイクロソフトとアスキーが共同開発した八ピットの家庭用コンピュータ。
ソニーなどの家電メーカーを巻き込んで商品化されたが、結局、失敗。 エレクトリック・ルミセンス。
ガラス基板に蛍光物質で膜を作り、透明電極で電圧をかけて発光させる。 フルカラー表示が難しい。
真空中での放電現象を利用した直視型ディスプレイ。


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